Levi Dexter 「Rockabilly Idol」

Rockabilly Idol ジャケット

ROCK IT RECORDS / RR0196


  時代は1950年代から60年代へと移り変わり、そして70年代初頭にロックンロールが当時の新しいサウンドに取って換わられようとした時、特にイギリスでは「テディー・ボーイズ」によって音楽のスタイルが養護された。50年代のロックンロール・ライフ・スタイルを支持するそのカルト集団は、70年代中頃には50年代より成長し、ヨーロッパ全体に広がっていた。当時クレイジー・キャヴァーン&ザ・リズム・ロッカーズやフライング・ソーサーズといったバンドがライブに於いてレアなアメリカン・ロカビリー・ソングをレパートリーに加えるようになっていった。リーヴァイ・デクスターはそのようなバンドとのセッションでその名が知られるようになった。彼はある夜、シェイキン・スティーブンスのバンド「ザ・サンセッツ」とジャムっている時、デヴィッド・ボウイやハートブレイカーズ(ジョニー・サンダースのバンド)のマネジャーをやっていたリー・ブラック・チャイルダースによって見い出された。彼らはテディー・ボーイ・シーンの外でプレイするべく、ロカビリー・バンドの結成を決意した。1977年11月10日、リーヴァイ&ザ・ロカッツはロンドンのロイヤル・カレッジ・アートで初めてのライブを行った。彼らはレゲエ・バンド、スティール・パルスと共演し、ジョニー・サンダースと共にチャック・ベリー・メドレーを演奏した。12月26日には、「Boxing Day Relapse」コンサートをスージー・&ザ・バンシーズ、アダム&ジ・アンツと行った。彼らはウェイン・カウンティー&ジ・エレクトリック・チェアーズと最初のテッズ&パンク・ツアーを行った。彼らはレイ・キャンピを初めとする、西海岸のローリン・ロック・レコード所属アーティストの活躍のおかげで未だロカビリーが息づいているアメリカに渡ることを決意した。東海岸ではロバート・ゴードンがすでにロカビリー・アルバムをレコーディングしていた。アメリカ全体にもロカビリー・シーンに追い風が吹こうとしていた。

  初めてのライブから1年後、リーヴァイ&ザ・ロカッツはニューヨークのマクシズ・カンサス・シティーでザ・クランプスと共演した。彼らは「マーヴ・グリフィン・ショウ」やウルフマン・ジャックの「ミッドナイト・スペシャル」で演奏した最初のバンドになった。彼らはラジオ・コンサート「ルイジアナ・ヘイライド」に出演した最初のネオ・ロカビリー・バンドだった。彼らは1954年に同じコンサートで若きエルヴィス・プレスリーを紹介したフランク・ペイジによって紹介された。この時の模様はポッシュ・ボーイ・レコードからリリースされ、2枚のシングルがクール・キャット・レコードからリリースされた。その2枚は「Room To Rock / All Thru The Night」と「Rockabilly Idol / Note From The South」だった。最初にリリースされたのはこのレコーディング・セッションからのテイクだった。

  1979年のクリスマス、リーヴァイ&ザ・ロカッツは最後のライブをロスアンジェルスのスターウッドで行った。新たにロカッツがニューヨークで結成されたが、リーヴァイ・デクスターはロスアンジェルスで新バンドを結成することを考えていた。年が明けてすぐ、リーヴァイとリーは「リーヴァイ・デクスター&ザ・リップコーズ」のオーディションの為ロスアンジェルスまでブライアン・セッツァーとその弟ゲイリーに会いに行った。リーヴァイはブライアンのバンド、ザ・トム・キャッツとジャム・セッションを行い、セッツァー兄弟の音楽的才能に強い印象を受けた。1週間後、ダニー・B・ハーヴィー(Guitar)と非常に若いアダム・スターン(Upright Bass)とスタジオでセッションを行い、ブライアンとゲイリーはニューヨークに戻った。ブライアンはリーヴァイのバンドでプレイするよりも、自分自身のバンドのフロントマンとしてプレイすることに未練があった。

  リーヴァイ・デクスター&ザ・リップコーズは最初のライブを西ドイツはベルリンのメトロポリスで行った。彼らは引き続きイギリスでもツアーを行い、4曲収録の最初のEPをリリースした。「Levi Dexter & The Ripchords ... In The Beginning」と題されたEPには、ロカビリー・シーンでビッグ・ヒットとなったストロール・ナンバー「It's The Beat」、熱狂的な「I'm Gone !」、「21 Days In Jail」、そしてもう一つのストロール・ナンバー「Cat Fight」が収録された。完璧な内容だった。

  リーヴァイ・デクスター&ザ・リップコーズはロバート・ゴードンやザ・ゴーゴーズと仕事をしたことがあるリチャード・ゴッティラーと3曲レコーディングを行った。レコーディングされたのは「The Other Side Of Midnight」、「I Get So Excited」、「Victim Of Kool」の3曲。これらの曲はイギリスではフレッシュ・レコードからシングルでリリースされた。12インチEP「The Fun Sessions」はこの3曲に加えて、リーヴァイのプロデュースによる「Let'er Roll」と「Jitterbop Baby」のイカしたヴァージョンが収録された。アメリカではPVCからリリースされた。この5曲は初CD化である。彼らはザ・ポールキャッツ、ザ・メテオスと共に、ロンドンの全ての大学をツアーして回った。ニューヨークのボンズではザ・クラッシュと共演した。彼らはイギリスのBBCにラジオ放送用の録音も行ったが、未発表のままである。また奇妙なことに、ダニーが新生ロカッツのギタリストになり、「Make That Move」のレコーディングに参加した。

  1980年代の中頃、リーヴァイは伝説のジョン・ジョーゲンセン(The Hellicasters)、ジェフ・ロス(The Shakin' Snakes)、タトゥー・アーティストのボブ・ロバーツ(彼は60年代にフランク・ザッパのバックでプレイしていた)、テキサス出身のマイケル・プリチャード(以前にリーヴァイのバンド「ザ・トライブ」でドラムを叩いていた。このバンドのレコーディングはない)、そしてベーシストに「Tupelo Chainsex」のメンバーだった「テュペロ」・ジョー・アルトラーダ達とバンドを組んでいた。ジョーは後にルイ・ジョーダンのスウィングをスカとのミックスで演奏する「Jump With Joey !」を結成。様々なスタイルでレコーディングされたアルバムによって、シーンにおいて最もリスペクトを受ける存在の一人となった。リーヴァイの名の下に集結した彼らは、ロスアンジェルス全域で活動し、ジャンプ/スウィング・シーンの先鞭をつけた。

  レコード会社はこのバンドを「ロカビリー・バンド」と決めつけていたので、だれもストレイ・キャッツと同じ土俵に引き出そうとしなかった。テレビ番組「W.K.R.P. Cincinatti」の記者、マックス・タッシュが書いた記事によって彼らにアルバム製作のチャンスが訪れ、1984年2月に彼らは「Pomp !」と題されたアルバムをロスアンジェルスでレコーディングした。しかしどのメジャーなレコード会社もリリースに難色を示したため、1992年にヴィニール・ジャパンがリリースするまで未発表のままだった。

  アルバム「Pomp !」の内容に興味を持ったリーヴァイの友人ボズ・ブーラー(ex.ザ・ポールキャッツ、モリッシー)はリーヴァイに日本でのライブを持ちかけた。そしてリーヴァイは日本での初ライブをジョン・ジョーゲンセン(G)、トニー・レッドホース(B)、クリス・アッティング(Dr)と共に行った。このツアー中、リーヴァイは日本のロカビリー・シーンのリーダー的存在であるMagicと知り合った。彼らはリーヴァイに一緒にアルバムを製作する話を持ちかけた。そしてリーヴァイは承諾し、1993年の夏にアルバム「Levi Dexter & Magic」のレコーディングを東京で行った。このアルバムはリリースされた年に日本だけでも40,000枚のセールスを記録した。メンバーはグレッチ・ギターを自在にギャロッピングする山口憲一、ベース・プレイヤー谷田部憲昭、元ブラックキャッツのドラマーだった久米浩志。この素晴らしいアルバムが初めてアメリカでリリースされ、リーヴァイは今でも最高のロカビリーを演奏できることを知らしめた。

  現在リーヴァイ・デクスターはロスアンジェルスに住んでおり、ハウス・オブ・ザ・ブルースでのロニー・マックによる「Elvis Presley Birthday Bash」のレギュラーである。またダービーやフットヒル・クラブといった場所でジーン・ヴィンセントのブルー・キャップスのオリジナル・メンバーと共演して注目された。彼がまた演奏する予定があるとか、近い将来レコーディングを行うだろうなどと語っているので、ロカビリー・ファンはリーヴァイ・デクスターのライブ/作品を聴くことを熱望している。

  このCDに収録された70年代から90年代までのレアでロッキンで収集欲をそそる作品群からリーヴァイ・デクスターが変わらずあり続けることが分かるだろう。彼はまさに「ロカビリー・アイドル」になった。



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