The Delmore Brothers 「Freight Train Boogie」![]() ACE / CDCH 455 |
何が兄弟デュオに起こったのか? 彼らのサウンドはカントリー・ミュージックの本質的なものの1つだった。彼らの綿密なハーモニーは、カントリーを家庭の、忠実で支えとなる価値のある家庭の音楽であると絶えず再確認させていた。マイクが改善され、それを使って豚を呼び集めるのではなくカントリーを口ずさむチャンスが歌手達に与えられた1930年代に彼らは活動を始めた。当時は天使の様なBlue Sky Boysが「The Knoxville Girl」を唄ったり、モンロー・ブラザーズが「魂と引き替えに何をくれるんだい?」と熱心に問いかけていたような時代だった。1本のトウモロコシの穂軸のように荒いディクソン・ブラザーズは、「I Didn't Hear Nobody Pray」でハイウェイでの事故からモラルを取り上げた。その時デルモア・ブラザーズは「Brown's Ferry Blues」で労働者のユーモア味を唄った。 これらは今日の楽曲あるいはカントリー・ミュージックの主題ではない。サウンドもそうである。緻密なハーモニーは流行とはかけはなれたものだ。 しかし、そのスタイルは廃れるのに長い時間がかかった。第2次世界大戦の前に評判だったほとんどのカントリー・アーティストは1945年までに多かれ少なかれいなくなったが、この兄弟デュオは大した問題もなく戦時中を切り抜けた。ディクソン家、アレン家、キャラハン家はシーンからいなくなったが、ボロック家、シェルトン家、カーライル家、モンロー家は1950年代まであるいはもう少し長くシーンにいた。 彼らは以前のような力は持っていなかったが、彼らの中で最も成功したビル&クリフ・カーライル、ビル&チャーリー・モンローらは家族を分散させて活動することによってしかキャリアを維持できなかった。もし、昔の兄弟デュオ・サウンドの中で今でも息づいているものを捜しているなら、このCDに収録されているアルトンとレイボンのデルモア兄弟の40年代と50年代の音楽に最終的にたどり着くだろう。 しかし、それは単にここ十年間程の軟弱な音楽ではない。「Kentucky Mountain」、「Take It To The Captain」、「You Can't Do Wrong And Get By」、彼らの1930年代のアプローチそのままにリバイバルした「Brown's Ferry Blues」などのいくつかの昔の曲は意図的に除外したとしても、キングに在籍した8年間に作られたほとんどの楽曲は特に先端を行くものだった。1926年から演奏を始め、1931年からレコーディングを行ってきた経験を持つ少数のカントリー・アーティストは、戦前の南部でカントリーを演奏することへの挑戦を楽しみ、聴衆を盛り上げるための技術と気質の両方を兼ね備えていた。 時代は急速に変化していた。仕事を求めてシカゴ、デトロイト、インディアナポリス、クリーブランド、デイトンといった北部の工業都市の南部白人のコミュニティーに移住した。同じような移住を経験した南部黒人のように、彼らは故郷を思い出したり、より進んだ文化に適合する音楽を望んだ。騒々しいバーやジュークボックスのおかげでアコースティック・ギターより迫力のあるサウンドに慣れていった。デルモア・ブラザーズは、年代順だけでなく音楽的にもエレクトリック・ブルースの発展と平行して変化するリスナーの要求に応えてくれる。このコレクションの中にたくさんのブルースとブギーを発見してもらいたい。 彼らが1944年にキングと契約した時(ブルーバードやデッカからいくつかのリリースがあった)、彼らはキングが拠点にしていたシンシナティーのラジオ局WLWで働いていた。しかし翌年にはメンフィスのWMC局の早朝番組を担当するようになった。「それまでで最高の仕事場所だったよ」とアルトンは回想している。彼らのレコードに於ける共同製作者、アーカンサス出身のハーモニカ奏者ウェイン・レイニーと出会ったのもそこだった。レイニーと彼のハーモニカ習得の恩師ロニー・グロッソンはデルモア・ブラザーズの番組に頻繁にゲスト出演していた。そして1946年2月にレイニーはデルモア・ブラザーズのレコーディング・セッションに初お目見えした。 キングでのデルモア・ブラザーズの未来は1946年1月にリリースされた「Hillbilly Boogie」の成功によって保証されていた。この曲はアーサー・スミスの「Guitar Boogie」に於けるエイト・トゥー・ザ・バー・ギター・スタイルの好例で、ポーキー・フリーマンのギター・ブギーも4つ星ものである。彼ら以外に3、4人目のギタリストを入れたり、時にはエレクトリック・ギターやスティール・ギターを取り入れてみたものの、その後彼らはこの定石パターンを逸脱できなかった。例えば田舎者(の雰囲気を出した)コメディー・デュオのホーマー&ジェスロでマンドリンを弾いていたジェスロ・バーンズが「Freight Train Boogie」のエレクトリック・ギター・パートを弾いている。また他のセッションではロイ・ランハムとジーク・ターナーといったギター・ブギーの大ベテラン2人が弾いていたりもする。 デルモア・ブラザーズの他の強みはブルースだった。そしてそれは1949年のヒット、「Blues Stay Away From Me」の一度聴いたら忘れられないギター・リフによって強烈に印象づけられた。この曲が成功した一つの鍵はよく練られたクロスオーヴァーにある。キングのハウス・ピアニスト/プロデューサーとして働いていたヘンリー・グローヴァーは、その前年にR&Bバンド・リーダー、ラッキー・ミリンダーに「Boarding House Blues」のアレンジをまかされていた。ミリンダーはその曲を1949年4月に「D Natural Blues」として録音した。しかしそれは似たようなメロディーが繰り返されるもので、ポール・ウィリアムズの「Hucklebuck」のアレンジは見たところグローヴァーのそれを模倣したものだった。 「外の寒さにさらされているようだったよ。」グローヴァーは回想する。「そこで私はシンシナティーへ行き、デルモア・ブラザーズと共にあの曲を仕上げたんだ。同じメロディーのつくりでエレクトリック・ギター・パートが地を這うような感じでね。」このレコードはビルボードのジュークボックス・カントリー・チャートでトップになり、売上とラジオ・オンエアの総合チャートでも2位になった。 「Blues Stay Away From Me」はデルモア・ブラザーズの未来を長期に渡って保証するものに成り得たが、そううまくはいかなかった。「彼らはラジオ局からラジオ局へと夢を追いかけ、レコードのビッグ・セールスを手にすることができなかった」とチャールズ・ウルフは書いている。彼らはアーカンサスのフォート・スミスへ移動した。そしてテキサスでは国境近くのデル・リオのXERF局やヒューストンのKPRC局で演奏した。兄アルトンより8歳若いレイボンはいい加減な面があり、結婚、借金、飲酒の問題に悩まされていた。アルトンは末娘の死によって荒れてしまった。そして1952年12月、レイボンは肺癌のため亡くなった。残されたアルトンは何年か音楽活動を続けたが、ゴスペルやロックンロールにさえ手を伸ばし、その歩みは止まりそして名前も聞かれなくなった。彼は死ぬ直前に自伝を書くことに時間を費やしたが、1964年6月に亡くなったため未完のままである。 振り返って、このCDに収録されている曲を聴くと、彼らの40年代、50年代にしてはよく計算されたカントリー・ミュージックに於ける形式をよく理解できるだろう。彼らの音楽はほとんどが過去の世界や農業労働者や蒸気船の・・・がよく似合う。彼らの音楽はブルーグラスの断固とした伝統尊重主義には斬新すぎたし、ロックンロールのヒップ・シェイクに比べて古くさかった。しかし南部を変化させるには、彼らの特殊な声がその時必要だったのだ。 |